イエス様、というと大抵の方はキリスト教を
思い浮かべるかと思うのですが
今私がイエス様、と言うときのイメージは、あくまで人間のイエス様
だな、と思います。
イエス様は、歯をくいしばって、能力を封じて愛を表現されたそうです。
そうして、誰よりも強い意志を発揮された方、だそうです。
簡単にやり返せる力を持ちながら、その全てを封じて、
あえて愛のみを示す使命を、完遂してくださったそう。
自分に唾を吐き、自分を殴るものに向かっても、
微笑み、十字架に釘打たれながら、冗談を絶えず言い。
イエス様は、多大な準備の末に、ついにそれをやり遂げらたそうです。
ケイシーは、イエス様がそれをしたとき、相手の怒りに油をそそぐ結果になった
けれども、イエス様はやり遂げられた、と言っています。
(私も一度だけやったことがありますが・・・。確かに、相手は怒ります。
「ああいうときに笑われると、バカにされているような気がするよな」だそうです。
本当に、微笑んだだけでした。)
なんのためかというと、修行をせずとも、愛を絶えず示すことだけで
人間が死を克服できることを示すため、です。
イエス様はいろんな修行をすでに完成しておられたそうで、
インドの聖者様などと同じように
肉体的苦痛を避けることも、死を避けることもすでに可能だったそう。
でもそのすべてを封じて、あえて、普通の人間と同じように、肉体的に死にました。
それでも、また復活し、肉体さえ従わせました。
ヨガなどで行われる呼吸法などの行法抜きに、です。
ただ、愛のみで。
それに挑まれて、完遂なさったそう。
自分が必要なのではなく、私たちに示すために。
スピリチュアルなどで、愛を説くことの源は、
実はイエス様にあるということになります。
それまで、仏教などでは、愛の力はわかっていても、
最後の一押しは、やはり修行、ということだったのかな、と思います。
でも、違う道を開かれた。
だいぶ、宗教じみている、と思うでしょうか?
でも人間には、愛するという行動だけで、解放される、
それがただ、可能なのだそうです。
修行をしなくても、日常の生活でただ、人を批判せずに与えつくすこと、
神様に集中し、その愛を信じることで、
死を克服することができる、物質的肉体に打ち勝つことができるそうです。
その道を、イエス様は初めて、開いてくださったそう。
そうして、世を捨てなくても、救われる道ができたそうです。
天使に似たものだった私たちが、好奇心で地球やってきて、
いろんな物体に同化して遊びたわむれ、しかしついに、
動物たちの行っている性欲に関心を示し、それに熱中し、
ついに物質の中につなぎとめられてから・・・。
イエス様を中心とする大師様、聖者さま方は、
いつも私たちを救う方法を働きかけてこられた、とケイシーは
言っています。
私も疑り深いほうなので、他の書物との関連を
いろいろ探ることが好きです。
ケイシー以外で私が好きな書物のなかに、
こういう表現があり、不思議に思っていました。
「私たちは、獣姦によって罪とされた存在なのだから」
なにか、そういう流れのときに思わずぽろりと書いてしまったような、
でも確信ありげで、なんて不吉な言葉なのだろう、と。
でも、今まで完全に嘘だと思う表現はその本にはなかったし、
なにかが、ひっかかる・・・。
やっとその疑問が解けたときは、すごく嬉しかったです。
イエス様が、人間のために十字架に張り付けにあった、と聞いても
ぴんとこないかもしれません。私はそうでした。
イエス様方は、間違って物質に堕ちてしまった私たちを見て
慌てて救いの方法を考えてくださった側の方だそうですから、
あえて人間として生まれる必要さえ、なかったと思うのですが、
30回ほどの転生を通してあえてカルマを作ったり、
そのすべてが、結局私たちすべてに捧げえられていることになるのだ、と
感じました。
神様に近いところにいる皆様方は、いつも、
私たちを救うための良い方法を模索してくださっているのだな、と思います。
ありがたいと同時に、申し訳ないな、と思います。
私は今、理由があって、苦手な人間に微笑むことが、とても苦手です。
そうなってから、私はとても不幸になりました。
また、イエスさまのように、なにがあっても、誰に対しても微笑むことができるでしょうか?
どうか、私に微笑を戻してください、私もがんばりますから、と
毎日祈りたいです。
皆様方にも苦手なことがあるでしょうか?
私にはたくさんあります。もっと強くなって、
イエス様方のように忍耐の末に自由になりたいです。
皆様方に健康と幸せがありますように。